2013年11月18日

すばると言えば


清少納言『枕草子』の236段は、
「星はすばる ひこぼし ゆふづつ よばひ星、すこしをかし。
尾だになからましかば、まいて」という、冒頭の言葉から始まる。

彼女は、思いつくままに星々を列挙しているように見えるが、
これには、ネタ本らしいものがあったようだ。
そのネタ本とは、中国から伝来した天文学書。
列挙する星の順序を変えて、軽妙な語呂となるように表現しているという。

これを簡単に現代語訳をすると、
「星は何と言っても”すばる”。彦星や宵の明星もいい。
流れ星も趣きがあってとっても良い。
だけども、あの尾っぽがなければ、もっといいんだけど」
という意味になるだろう。

今夜は、この冒頭部分と同じくする夜空を迎えることができたようだ。

今、天空の高いところに”すばる”が、きらめいているが、
数時間前の夕焼けの頃の西の空には、
ゆふづつ(宵の明星)と呼ばれる金星が輝いていた。
そして、これから夜半には、獅子座流星群が現れるという。
まさに、この一節を演出したような一夜。

すばると言えば、
俳人の山口誓子(せいし)の句には、星空を詠んだものが多い。
彼の句のひとつに、
「茫(ぼう)と見え またひとつずつ 寒昴(すばる)」がある。

日が暮れかかって、六星の”すばる”が一つ、また一つと見えてくるという句。
今日は、穏やかに晴れ渡り、そんな一日でもあった。

また、彼のすばるを詠んだ句には、

「寒月に 昴うすれ 無惨なり」という句がある。

今頃の満月の軌道は、天空の高いところを進む。
そんな凍れる大きな月が、”すばる”の光を隠してしまっている。
なんと興ざめかことか!?という意味になる。

今宵の夜空は、清少納言の時代から1000年の時を経て、
その時と同じような大空のドラマが展開している一夜と言えそうだ。   


Posted by helo  at 12:27Comments(0)

2013年07月23日

私の子どもの頃は

先週の金曜日に1学期の終業式を終えた孫のゆい。

家族が賑やかな週末を終え
いよいよ本格的な夏休みの生活にはいった。

夏休みの始めはすがすがしい牛栏奶粉最新事件2013
きっちり立てられた夏休みの予定。
きっと今度こそは予定通りにやれるだろうという期待。

は・は・は・・・
その後の展開がいろいろなことは誰でも予想されるが。

その手始めに、
今朝はラジオ体操に行った。

なっつかしいなぁ~~~

私の子どもの頃は
学校まで行っていた。学校をあげての大行事だったような・・・
私の子育て時代は、ラジオ体操はどんどん簡略化され
子ども会主体で、近所の公園でやっていた。
孫のゆいの時代になると
学校関係は一切無関係牛栏奶粉召回
去年はラジオ体操のラの字も忘れていた。

今年は学校から企業の広告の入ったラジオ体操のカードが配られた。
でもどこでラジオ体操をしているとかの情報は一切ない。

ラジオ体操のカードでハンコをもらえらるお話をしてら
ゆいは、俄然、やる気まんまんになってきた。
私の住んでいる地域で、数年前から
ラジオ体操を通年やっていることは知っていた。
で、早速、今日から参加したわけだ。

行ってみたら、みなさん小学生の参加を心待ちにしてくださっていた。
他に2人小学生もいた曾壁山中學
子ども会に参加呼びかけの回覧を廻したけど、見なかった?
と代表の方から再びの回覧要請。

久しぶりのラジオ体操は気持ちよかったぁ~~~
あちこちが伸びた~~~~

犬の散歩も兼ねて一石二鳥。

あ、でも明日から私も参加するか否かは
明日の私が決めるけどね   


Posted by helo  at 17:00life

2013年06月14日

真理を判断する

個人的絶対主義者は「私の見つけたこれは間違いない、真理だ」と言って納得させようとする。
個人的相対主義者は「これは相対的に真理だAsian college of knowledge management、だってこの証拠があるからだ」といって説得しようとする。

個人的絶対主義者は案外主観的な好みで真理を判断する。

個人的相対主義者は絶対的真理であるという証拠を提示しようとする。

相対主義がその状況、信念などによって判断され、主張されるべきものを説得するために妙な真理を持ちだそうとすることを戒めなくてはならないSet up Business in Hong Kong

絶対主義の判断が個人の状況や信念、好みによる真理の発見になりがちな矛盾と似ている。

個人的な相対主義は場当たり的に見えたり、単に群集心理的なものにみえたりもするが、個人の生きる知恵として使う場合、有効ではないかとぼくはみている。

神の存在を否定出来る証拠になるような出来事、人間、人格、行動を目にした時、耳にした時、私たちの心は揺れるstorage cabinet。落ち着かせるためにどういった思考法を使っているだろうか。

相対主義的な見方によって、心の揺れを落ち着かせることが出来ないだろうか。そこで見える世界観こそが個人の真実ではないだろうかとぼくは考えている。   


Posted by helo  at 15:44story

2013年05月10日

離婚が決まって

離婚が決まって、
あたしと、これから元夫になる人は、
日曜の真昼にそれぞれ自分の部屋の
荷造りをしていた。

あたしが自分の部屋の片づけをしていると、
廊下を隔てた元夫になる人の部屋から
書棚の整理をしているらしき
ぱさぱさ、どたんという音が聞こえてきた。

その書類整理のがさつな音は、
夫婦が同じ屋根の下で
それぞれに各自の部屋を持つこと自体が
間違いであったのではないかと
問いかけている雀巢奶粉
そんな気がした。

たとえ、どんな夫婦であれ、
別々の部屋で眠り、
離婚する夫婦もあれば、
もちろん離婚しない夫婦だってある。

別の考え方をすれば、
お互いが別室であったからこそ、
これまで、二人の間に起こった
さまざまな事象に
お互いが折り合いをつけながら
ここまで、デコボコの道ではあったけれど
やってこれたのかもしれない。

そう考えると、部屋が別室であったことが
離婚の大きな原因ではないような、
いや、違う、それこそが一番の原因であるような
もうどっちが正しかったかなんていう
判断さえ、放棄せざるをえないほどの
混乱の中へあたしを放り投げてしまう。


あらかたの片づけが終わると、
ベランダに出た。
家の中は空気が薄く感じられ、
外気にあたって、
違う空気を肺に送り込みたかった。

陽は、ほとんど落ちかけていて、
眼の前の桜の並木は年に一度の自然の圧力に押され
葉桜に変化しようとしていた。

煙草なんて吸ったことなど
ほとんどないのだけれど、
こんなときに煙草が吸いたいと
思う牛奶敏感

不思議なものだ。

煙草を吸う人は、その理由は様々だろうけれど、
こんがらがった考えをまとめたり、
あるいはその考えを
一度凍結する決意を固めるために、吸う。
たぶん、そういう目的もある。

どうしても吸いたい。
そう切望しているうちに、
のっこりと、ベランダへ煙草を吸いにきたのは、
今のところ夫、という人だ。

彼が煙草を吸うことを、あたしはいつも嫌悪していたのだけれど、
もう、そんなことはどうだってよくなっていた。

「結婚したら、煙草はやめるよ」
彼はそう言って、あたしにあのときプロポーズしたのだ。

「一本、くれない?」
あたしは、言ってみた。
夫は、だまって、煙草の箱を振って、
2、3本飛び出たその煙草の箱を
あたしに向けた。

あたしは一本だけ、取り出し雀巢奶粉
口にくわえると、夫は、慣れた手つきで、
ライターで火をつけてくれた。

その方面における彼の気の配り方に、
あたしが一度も見たことのない彼の姿があった。   


Posted by helo  at 17:28

2013年04月06日

雪柳に花がつ

春は待望の季節であると同時に、不安に満ちたものだ。それらの感情は綺麗に半々ずつ、私の中に存在している。気温が徐々に上がっていくのを、空気に少しずつ湿っぽさが含まれていくのを、肌で感じては嬉しさがこみ上げてくる。けれど、その只中で落ち着かなくなってしまう自分もいる。春は変化の季節だ。そして私はその変化という存在自体に、ほんの少しだけ、怯んでしまうcheap bedroom furniture

雪柳に花がつき始めた頃から、私は木々の枝先に目を向けるようになる。梅も桜もそれぞれに愛らしい。それらの花びらが川やアスファルトを覆っていくのも。花を見るためだけに出掛けるようになり、カメラが欲しくなったり、誰かを誘いたくなったりする。生物全般が、活動的になる。

そんな中で、出会いと別れが幾つも生まれる。それはちょっとした事件なのだと思う。街中に溢れる、ちょっとした事件達。それに加えて、何かを終わらせたり、始めようとしている人達がいる。これらが発しているエネルギーを、気温や湿度と同様に肌で感じて、疲れてしまうのかもしれない。春というのは、人間社会にとってもひとつの大事なのだ。

不思議なことに、春は悪夢をよく見る。通年で統計を取ったわけではないけれど、連続する悪夢に悩まされるのは、いつだって春だった。しかもそれは起きてからしばらくしても身体に残っているような類の悪夢で、私は今年も再び「どうすれば良い夢が見られるのだろう」と思いあぐねている。初夏を迎える頃にはそういった事がさっぱりと無くなるので、これはやはり春であることが一因なのかもしれないClaire Hsu

気圧や気温に人間の身体が影響されるのだから、季節もきっと、何らかの影響を及ぼしているのだろう。春という季節が、私の中に理解できないような作用を及ぼしているのだとしたら、自然に対する畏怖のようなものを、あらためて感じてしまうShipping Forwarder。   


Posted by helo  at 13:09life

2013年03月15日

やられた

 ボクシングの試合を見ていると、パンチが顔面に当たってノックアウトするシーンに出くわす時がある。

 パンチが顔面に当たった瞬間、足元がふらつき、腰が砕けて、尻もちをつく。

 たまに大の字に倒れるシーンも見かけるが、あれほどの強靭な肉体を持つ人間でも顔面に強い打撃を与えられると気を失うことがあるのか、と驚くClaire Hsu

 幸いにも顔面を強く打撃される経験は僕にはないが、顔面に強い打撃や衝撃を受けた瞬間、その本人はどう思うのだろうか。

 やられた、と観念するのか。
 気を失う前にこちらも相手の顔面を、と反撃に出ようとするのか。

 どちらにせよ、顔面に強い打撃を与えられる状況に出くわしたくない。

 小学生の時、飛んできたサッカーボールが頭に当たって、しばらくその場でうずくまった思い出がある。

 朝、友だちと話をしながらグラウンドを歩いていると、突然、物凄い勢いで何かが頭に当たった衝撃があり、わけがわからぬまま座り込んでしまった。

 ちょうどその時にサッカークラブがグランドで朝の練習をしていて、パスを出すために蹴られたサッカーボールが僕の頭を直撃したらしい。

 そのサッカーボールを蹴った本人を含めた数人が僕の周りに集まって声を掛けてくれていたが、その時の僕はそれどころではなかった。

 しばらくその場から立ち上がれなかった。

 トランポリンという遊具がある。
 僕はそれが好きだったexecutive gift
 ジャンプすればジャンプするほど、より高く高く飛べる感覚が好きだった。

 その一方で、そのトランポリンに体を横にして寝ころぶと、どこまでも沈んでゆき、体がくの字になった。
 いつもは寝ころんでもそのような体勢にならない場所で横になっていたので、体がくの字になるという感覚に不思議さを覚えた。

 トランポリンで高くジャンプするだけではなくて横に寝ころんで遊んでいたのは、僕が幼稚園のころである。

 男は失恋に弱い。
 相手から別れ話を持ち出された瞬間、別の自分がノックアウトし、遠ざかって行く相手の後ろ姿を見て立ち上がれず、交際のピリオドが打たれたショックにどこまでも気持ちが沈んでいく。

 男は失恋を引きずる、というのは本当の話だ。
 何度か失恋した経験を持っている男の僕が言うのだから間違いない。
 もし、あなたの知人の男性が失恋したと言う話を切り出しても、決して『失恋なんて……』と返さないでやってほしい。

 それは傷口に塩を塗るようなものだchildren’s bedroom furniture
 だから、その時は話を聞いて相槌を打つだけでいい。
 それだけでも失恋した男は癒される。
 そのような経験で失恋から立ち直った僕が言うのだから、間違いないと思う。   


Posted by helo  at 16:34

2013年03月15日

全くもって


子供の頃、友人の家へ遊びに行くと、お昼には決まってその家の親は、「何もないけど一緒にご飯を食べて行きなさい。」と食事に誘ってくれました。一緒に遊びに来ていた他の子は昼食は勿論のこと、その後も一緒に遊び続けて、夕食まで頂くこともあったようです。

私はと言うと、親戚と言えども其処の家の食事に肖るということはありませんでした。なぜならそれは私にとって、と言うより私が受けた我が家の教育方針が、他所の家庭の食事に肖ることは施しを受けることであり、施しを受けることは恥であるという教育だったからです。

他所の家の食事を食べると言うことは、食べ物を恵んで貰うということに変わりなく、それはみっともなくて恥ずかしいことで、家族や家系に泥を塗り、祖父や父のプライドを傷つける行為に他ならなかったのです。それほど私の親家族は人の世話になることを尽く嫌っていました。

他所で一緒に遊んでいた友人達が、そのお宅でお昼ご飯を食べている間、私は一人だけ自分の家にわざわざ戻って食事を済ませ、再び足を運びました。戻って食事が出来ないような遠い場所の時は、一人だけ午前中で遊ぶのをやめて、友人と別れて帰宅するのでした。

今思うと、その頃から私は、本来経験すべき子供の世界や人間関係を築くチャンスを奪われ、子供なのに大人の環境に縛り付けられて行動範囲を制限され、結局は行動をコントロールされて、『子供』を体験する事を許されなかったのです。

大人にとって都合のいい子に着々と育て上げられていた訳です。人の世話になる事は恥ずかしいことなんだとすり込まれ、苦しくても苦しいと言えず、辛くても辛いと言えず、助けが欲しくても助けてと言えない、終いには自分から人の情を拒絶するようになってしまったのです。人に弱さを晒す事が屈辱と感じるようになってしまいました。

全くもって、大人になって世の中を渡って生きていくには、絡みづらく可愛気のない人間です。男性からみたら、女としては最悪でしょう。

厄介なのが、そういう人間であるが故か、自分より年上の男性に甘えられる事が許せません。出来るであろうことが出来なかったり、子供じみていたり、甘えてくる男性が許せません。時々、男性に甘えられると母性本能を擽られ嬉しいとか、大人の男性の中に見える少年の部分が魅力的だという女性がいますが、私はありえません。

ただ、兄弟の一番上で育ったせいか、男女問わず年下に対しては、守らなければいけないという使命感と責任のようなものを無意識に抱いてしまいます。なのに、年上の男性に甘えられるととても不快なのです。(正直に言うならムカついてヘドが出ると言ったところでしょうか。)

それほど、自分の全てをいつ何時も安心して委ねられる相手しか認められないし、信用できなくなってしまっています。根底は大人を信じられない人間不信なのでしょう。

それでも最近はそのような男女関係に身を置くこともあまりなくなったこと、私自身も人生経験を積むにつれ、自分の意思表示が出来る神経の太さも徐々に持ち合わすようになってきたようで、多少は人間に馴染んできたかなと感じています。

どんな家族にもきっと様々なその家族だけのルールがあると思います。今ふと思い出しても、子供教育にも家族間の愛情にも何のメリットもない、ただ大人のエゴに重きを置いた、随分と理不尽なルールで縛られていたものだと思います。   


Posted by helo  at 16:33